コミュニケーション能力と学び(覚え書き)

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■国語教育とコミュニケーション能力

 京都外大のT先生が、国語科におけるコミュニケーション能力の育成にチャレンジしている小学校の取り組みを紹介していらっしゃいます。

 そういえば…と思い出したのですが、1996年、大学院留学から帰国した直後、学部時代のゼミ主催のフォーラムにて、多くの先輩方(国語の先生たち)に向けて、日米のスピーチ教育の話をさせていただく機会がありました。

 当時はちょうど国語科にディベートが取り入れられたりして、言語表現教育が注目され始めた時期でしたが、講演のあと、(言語表現教育で有名な)兵庫教育大学大学院に内地留学されていた先生から、こんな悩みを打ち明けられました。

 「私の授業実践を観察したドイツの研究者から、『あなたの実践は、スピーチ教育ではなく、語りですね」と言われたんですが…。」

 なんとも象徴的な出来事だったなあ、と今は振り返ることができますが、当時は、それが何を意味しているのかをきちんと説明することができませんでした。

 いずれにせよ、T先生の報告を読ませていただく限り、同じようなことが、現在の国語教育の現場でも試みられているのではないか?という気がします。 

 さて、

 先週TV番組「ブロードキャスター」を久しぶりに見ましたが、そこでも大学生のコミュニケーション能力の重要性が取り上げられていましたし、最近は本当に「コミュニケーション能力」が注目されていますね。

 ただ、「コミュニケーション能力」といっても、あまりに漠然としてるので、私は最近、「メッセージの能力」と「メディアの能力」という言い方をしています。あえていうなら、その時々の文脈にふさわしい方法で、この二つの能力を統合できる能力こそ、「コミュニケーション能力」と呼ぶべき能力ではないかと考えています。

 日本では、漢字という文字(メディア)を取り入れた古代以来、ずっとずっとずっと、身体で覚える「メディアの能力」が評価され続けてきたという歴史があります。

 コミュニケーション能力に対するこの評価観は、現代社会にも着実に受け継がれていて、身体論に基づく齋藤孝さんのメソッドが広く受け入れられているのも、そういう土壌があるからでしょう。齋藤氏は、いわば、明治以降の近代化が否定してきた江戸以前の学習文化を発掘しているのです。

 それは、もちろん守られるべき伝統であり、後世に伝えていかなければいけない財産です。

 けれども、あまりにも多くの場面で、「メッセージの能力」が置き去りにされたまま、「メディアの能力」が一人歩きをしている現実に、私は強い問題意識を抱いています。

 国語科教育において、日常生活における言語能力の育成という試みは、戦後から実に半世紀以上も続けられているのです。にもかかわらず、今なお確実な成果があげられずにいるのは、いったいなぜでしょうか。

 私は、こう考えています。

 「メッセージの能力」とは、自分が発信すべきメッセージを生成し、他者との相互作用に参与しながら、建設的な議論を共同構築していく能力です。これは決して、普通に生活していれば自然に身に付く能力ではありません。

 国語の先生も例外ではなく、一部の天才肌を除けば、誰にとっても、しかるべきサポートを受けなければ、開拓できない能力なのです。

 私は、教員養成学部(国語科)を卒業しましたから、国語教員の免許なら、高校(一種)、中学(一種)、小学校(一種)をもっています。しかし、大学時代にそういう訓練を受けた覚えはありません。

 はたして、今日どれだけの現場教員がその機会を与えられているのでしょうか。

 まず、教師が自らの「コミュニケーション能力」と向き合い、そのプロセスを対象化できるようにならない限りは、他者を支援したり、有効な学びのプロセスを設計するのは、難しいのではないでしょうか。

 しかし、逆にいえば、そこから出発しさえすれば、あとは自ずとついてくるのではないか?と楽観視しています。
 
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by tomac | 2004-11-22 17:21 | コミュニケーション能力って
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