コミュニケーション能力と学び(覚え書き)

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◆信仰って

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少しずつ読み進めた『脳神経倫理学の展望』信原幸弘・原塑(編著)を読み終えました。扱っているテーマは多岐にわたりますが、私はもともと「宗教の自然化」というテーマに興味がありました。宗教と呼ばれる人間の営みを脳科学がどこまで説明できるのかということです。

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 より重要な問題は、宗教経験の存在が何を意味するかということである。そうした体験の内容である、一切の差異・区別のない統一的な実在や神が実際に存在し、宗教経験をつうじて体験者はそうした存在と出会っているのであろうか。それとも体験者がそうした内容の体験をしたというだけで、実際に出会ってなどいないのだろうか。言い換えれば、目の前にあるさまざまなものを見ている経験と同様の、正しい内容を持つ経験なのだろうか、それとも夢や幻覚に比すべき間違った内容を持つ経験なのだろうか。脳画像そのもの、そして宗教経験の存在自体は、どちらの可能性とも両立しうる。
-----高村夏輝「神経神学は神を救いうるか」(p.325)-----

結局、結論は「宗教と科学の関係に対する神経科学の影響は、今のところ予想しがたいとすべきだと私には思われる」という「煮え切らなさ」を含んでいますが、賢明な判断ではないのかなと私自身は思いました。

ただ、読んでいてなんとなく違和感を覚えたのは、宗教経験が心霊現象のように捉えられていることです。

「神の存在」とは、そういうものではない。出会いの意味が違う。


では、「神の存在」とは、どういうものなのか。ということを自分なりに考えてみました。

私たちの人生は、それぞれ独立した一本の線のはずなのに、あるときそれが人知を超えて(人間の計算や操作がおよそ届かない次元で)あまりにも美しく共鳴する瞬間がある。これはおそらく、科学者が自然界の法則を発見して大いなる存在の前に思わずひれ伏す感覚と似ているだろうと思います。

その意味でなら、宗教と科学には共通点がある、と言えますね。

とはいえ、科学的法則は研究によって見出されるものですが、信仰の歩みは人生そのものが探究のプロセスです。その歩みをお互いに確かめ合って共有するために、私たちは教会に集うのだと思います。ときとして、礼拝や祈りを通して信仰心が高まり、感情がゆさぶられるという体験はたしかにありますが、そのこと自体は信仰の歩みという長い長いプロセスのほんの一面に過ぎないと私は思っています。


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by tomac | 2014-06-07 10:15 | 日々の出来事
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