■病気から学んだこと (その1) → 博士号という学位
嬉しいニュースが届きました。関西大学大学院文学研究科において、博士号の取得が正式に決まりました。論文審査という重荷を快く背負ってくださった先生方をはじめ、最後の最後まで支えてくださった多くの方々に、心から感謝申し上げます。
ただ、博士号という学位が、健康と引き換えにするほどの価値があるのか?と問われれば、私のこたえは「NO」です。そもそも身体が壊れるほどのストレスは、学位を持たない研究者としての後ろめたさと、論文博士の称号に対する虚栄心から生まれたものです。けれど、病気によって仕事を失いかけたとき、学位の妄想からようやく目が覚めました。
学位があっても生きてはいけない。人生には、そんなものよりずっと大切なものがある。
なんとか論文を提出したあとも、口頭諮問をいつ受けるのか、という決断を迫られました。心身ともに不安定で、判断力が極端に低下した状態ですから、ひとりでは電車にのって移動することさえできませんでした。あのとき、「ちゃんと支えるから、あきらめないで、最後までやってごらん」と暖かい手を差し伸べてくださった方々がいなければ、私ひとりの力で、ここまでたどりつくことは到底不可能でした。
病気になったことに何か意味があるのだとしたら、それは間違いなく、学位を受け取る前の「みそぎ」でした。だからこそ、いま「これでよかった」と心の底から思えるのです。
ただ、博士号という学位が、健康と引き換えにするほどの価値があるのか?と問われれば、私のこたえは「NO」です。そもそも身体が壊れるほどのストレスは、学位を持たない研究者としての後ろめたさと、論文博士の称号に対する虚栄心から生まれたものです。けれど、病気によって仕事を失いかけたとき、学位の妄想からようやく目が覚めました。
学位があっても生きてはいけない。人生には、そんなものよりずっと大切なものがある。
なんとか論文を提出したあとも、口頭諮問をいつ受けるのか、という決断を迫られました。心身ともに不安定で、判断力が極端に低下した状態ですから、ひとりでは電車にのって移動することさえできませんでした。あのとき、「ちゃんと支えるから、あきらめないで、最後までやってごらん」と暖かい手を差し伸べてくださった方々がいなければ、私ひとりの力で、ここまでたどりつくことは到底不可能でした。
病気になったことに何か意味があるのだとしたら、それは間違いなく、学位を受け取る前の「みそぎ」でした。だからこそ、いま「これでよかった」と心の底から思えるのです。
by tomac
| 2006-09-13 18:32
| 日々の出来事