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コミュニケーション能力と学び(覚え書き)

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■病気から学んだこと (その2) → 祈りと友情

闘病中、「病気は天罰に違いない」という思いがぬぐえず、大いなる存在の鋭い視線から逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。

そもそも原稿を書き始めたのは、ひつじ書房の松本功さんから声をかけていただいたのがきっかけでした(依頼した原稿が学位論文になったのは二人目だそうです)。それが2003年10月ですから、かれこれ3年経ちましたね(本になるまでにさらに1年ですが)。

3年間すべてをこの論文に注いできました。多くのものを犠牲にしましたし、大切なものも失いました。対話デザインや映像ブログといった授業実践でさえ、心のどこかでは「論文のため」という算段が働いていたのかもしれません。そういうわけで、学位取得を目前にしながら病気でつまづいたときは、あまりの「自己チューさ」に神様があきれはてて、私からすべてを奪われたんだ、と本気でおそれました。

ところが、学位取得が決まった2006年9月13日、なんとも不思議な体験をしたのです。

実は、フィンランドの共同研究者のひとりは、教育学博士であると同時に女性牧師です(初めから知っていたわけではないのですが)。今思えば、最初から彼女のところに行くよう計画していれば、受け入れ先のドタバタを免れたのですが、「田舎だから身動きがとれない」という打算からヘルシンキにこだわったのがそもそもの間違いでした。とにかく、彼女とは発病後もメール交換が続き、書きかけの共著原稿も仕上げることができました。

当日の明け方、突然、彼女がに現れたのです。そして私に「イザヤ4a」と示しました。「え?」って感じです。聖書なんて、この3年は開きもしませんでしたし、ましてや苦しんでいたときは、神の言葉になんて耳をふさぎたいだけでした。だいたい「イザヤ4a」なんて聖句はありません…(汗)

それが、目が覚めてから、ふと気づいたのです。「もしかして、イザヤ40章のこと…?」  半信半疑で聖書を開いてみると、思いがけない聖句が目の前に飛び込んできました。ここでは引用は控えますが、お手元に聖書をお持ちの方は、ぜひご覧になってみてください。

そうか。病気を通して、償ったのか。なんであれ、罪はゆるされたんだー!

このときの安堵感をどう表現したらいいでしょうか。自分ではどうにもできない「罪悪感」を誰かにゆるしてもらえる。その瞬間、私をがんじがらめに縛っていた何かから解き放たれるのを実感して、思い切りジャンプしたいような気持ちになりました。

それから、ほどなく、学位取得の知らせが届いたのです。なんだか久しぶりに、「やっぱり神様っているのかな」と思ってしまいました(笑)。

驚きとともに、すごく喜んでくれた彼女は、「『イザヤ4a』と間違えるなんて、英語が下手な私にピッタリね!」とおどけていました。

まだ先のことはわかりませんが、在外研究員としてフィンランドに一年間滞在することはかないませんでしたが、時折の訪問はいつでもできるのですから、悲観はしていませんよ。長くて暗い冬はさけて(笑)、過ごしやすいときに通うことにします。

でも、やっぱりオーロラが見たいですね。流氷も。
by tomac | 2006-09-17 17:31 | 日々の出来事
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