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コミュニケーション能力と学び(覚え書き)

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■プール

 むかし水泳をやっていたこともあって、プールが大好きなのですが、
時間がとれなくて、昨年春に買った回数券が、ぜんぜん減りません。(汗)
(もう一年半になる!)

 回数券に特に期限はないようですが、とりあえず使ってしまいたい、
という気持ちと、時間を作ってでも運動せねばっ!という危機感から、
先週、ほんとーに久しぶりに行ってきました。

 ところが、開館時間も駐車場の料金もなんだかいろいろ変更されていて、
ガードマンのおじさんには、「もう閉めるから、帰んな」と、
すげなく言われてしまいました。(汗)

 それでも、「30分泳げればいいですから」と食い下がって、

 きがえて、泳いで、きがえて、

 髪の毛もきちんと乾かせないまま、閉館ぎりぎりで飛び出しました。

 考えてみると、泳いだのは実に一年半ぶりということになるけれど、
ゆっくりゆっくりのリラックス泳法(?)をしたら、疲れず泳ぎ続けることができたので、
ちょっと驚きました。

 意外と体力が残っているのか、

 それとも、

 ぜんぜん運動になっていないのか?(笑)

 まあ、いずれにせよ、閉館まぎわのプールは、ほとんど貸しきり状態で、
少しあわてなければならない点を除けば、わりと穴場かもしれませんね。(笑)

 今日も、このあと、いってみようと思っています。
 
by tomac | 2004-11-17 18:27 | 日々の出来事

■身体と頭をほぐして

 毎日毎日、朝から晩まで、パソコンに向かう日が、延々と延々と延々と…はてしなく続くと、さすがに身体がSOSを発信しますね。(汗)

 最近なんだか左脳の言語野あたりに偏頭痛を覚えるのは、やっぱり運動不足のせいでしょうか。(涙)

 今もしも言語機能を失ったら、今年の1月から書き始めた本の原稿が、あともう一息というところまできているだけに、それはもう、無念だろうなあ・・・

 ということで、今朝は、無理やり時間をとって、少しだけ散歩しました。きれいな秋晴れで、ひんやりと透き通った空気が格別でしたよ。

 でも、年のせいなのか、昔のように運動しようとムキになって歩かず、とにかく固まった身体をほぐすことを心がけます。今は、それが一番必要なことのような気がするので。

 ちなみに、
 火曜の晩は、大学院のゼミにて、夜9時まで、真剣な議論を交わすします。そのあと覚醒した頭がなかなか静まらないのですが、

 翌朝は1時間目から大事な講義があるということが、さらなるプレッシャーとなって、なかなか寝付けず、(秋学期は)週の中で一番つらい夜となっております。(涙)

 まあ、でも、無理に頭をほぐそうとするから、よけいに固まるのであって、

 いざとなれば、一晩、徹夜すればいいじゃーん、と思うと、かえって気持ちが楽になるのが不思議ですね。

 要は気持ちの持ちようなのでしょうが、これがなかなか難しい。(笑)

 
by tomac | 2004-11-16 21:59 | 日々の出来事

■脳を操る日が来るの?!

 なんだか脳の話ばかりで恐縮ですが(汗)、

 今朝の朝日新聞に、パーキンソン病の患者さんが脳に電極を埋め込むことによって、
歩く機能を回復したという記事が載っていました。

 マイケル・J・フォックスの『ラッキーマン』を読んだら、パーキンソン病がどんな病気か、
ある程度は想像ができて、この病気に苦しんでいる人たちが、 どんな方法であれ、
失われた機能を取り戻したい、と願うのは当然です。私が同じ立場だったら、やっぱり、
脳に何を埋め込んでもいいから、歩けるようになりたい。

 ただ、

 実は、記事に添えられたイメージ図を見て、別の記事のイメージ図を思い出しました。

 『進化しすぎた脳』(池谷裕二、朝日出版社、2004)の中で、「ネズミをラジコンにしてしまった」という記事が紹介されているのですが、「生きているネズミの脳に刺激用の電極を刺し、リモートコントローラーで自在に操縦できるようにした」という実験を紹介しています。(2002年、科学雑誌『ネイチャー』に掲載された論文だそうです。)

 きっと、ねずみでも人間でも、原理は同じなんだろうから、いつの日か、リモコン操作で、
人間の脳を操ることができるようになるのだろうか、と思うと、ぞっとしたのでした。

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 ちなみに、『進化しすぎた脳』は、高校生を対象にした授業の再現なので、
脳のメカニズムをとてもわかりやすく話して聞かせてくれます。

 著者の池谷氏は若手の研究者ですが、ダマシオやルドゥーといった大御所の前に、
こういう入門書から始めていたら、もう少し専門用語が理解できたのかもな~。(笑)

 その前に出版された『海馬』(朝日出版社2002)は、糸井重里さんとの対談で、
こちらも読みやすそうです。

 注文していたのが届いたばかりで、私もまだ読んでいませんが、こちらもあわせて、
紹介しておきますね。

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by tomac | 2004-11-15 20:03 | 日々の出来事

■良心

 たまたま今朝の朝日新聞に、
昨日の話題(物語という対話)と関連する記事が載っていました。
(→「『残虐さ過剰』と削除」朝日新聞大阪本社2004.11.13)

 本宮ひろ志氏が『週刊ヤングジャンプ』(集英社)に連載中の漫画の中で、
「南京虐殺」を描いた部分が「過剰な虐殺のイメージを想起させる」という理由から、
削除・修正されることになった、という記事です。

一方では、
 「『南京大虐殺』はないという強力な証拠がある」
 「死体は一体もなかった。(中略)虐殺はなかったと言い切れる」
という立場があり、

もう一方では、
 「非戦闘員の殺害、略奪行為などがあったことは否定できない」
 「陥落後に捕虜や中国兵とみなした人々を集団処刑したのは事実」
という立場があって、

議論はまったくかみ合いません。

 例のごとく、
「事実」や「証拠」で「倫理」が語られ、「表現の自由」で「権利」が語られていますが、
週刊誌のゴシップ記事なら、それですまされても、このようなテーマを扱ううえでは、
もっと大切な何かがかけているのでは?という気がしてなりません。
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 話が大きく飛躍するようですが、

 「脳の本」の話題のところでご紹介した神経学者のアントニオ・R・ダマシオによれば、
(→2004年10月25日、27日に関連記事あり)

 「意識」と呼ばれるものには、きわめて生物学的なレベルから始まる発達段階があり、
そして、「意識ある心の頂点にあるもの」とは、
「良心」だと結んでいます。

 ほんの一部だけ、引用してみたいと思います。


------

 「意識」という言葉にはあまりにも多くの意味が込められている。この意味の多さゆえに、
いまや意識という言葉を無条件に使うことはほとんどできないし、また、意識がいまや
最高の地位へと押し上げられてしまっているのも、たぶんこの意味の多さからだろう。

 またこの意味の多さゆえに、善と悪を区別する能力、同胞の人間の要求と欲求、
宇宙の中でわれわれが占める位置の感覚など、われわれがきわめて洗練されたもの、
きわめて人間的なものとみなしている人間の特質を、われわれは無制限に意識に帰す
ようになってしまった。こうして、意識は触れてはならないものになった。

 私は意識をそう見てはいない。意識があるから、われわれが賞賛する人間的特質を
「心」がつくり上げることができるのであって、意識はけっしてそうした特質の本質ではない。
意識は愛や名誉や慈悲と、寛容や利他主義と、詩や科学と、数学や技術的想像力と、
同じでは「ない」。そのことで言えば、不道徳な行為、存在の不安、創造性の欠如も、
悪い意識状態の例ではない。ほとんどの犯罪者の意識は損なわれていない。
損なわれているのはたぶん良心だ。

(アントニオ・R・ダマシオ(1999)田中三彦訳(2003)
『無意識の脳 自己意識の脳 身体と情動と感情の神秘』講談社
p.368-369)

-----

 むずかしい本ですけど…(汗)、 興味があったら、図書館で借りてみてください。
by tomac | 2004-11-13 12:46 | 日々の出来事

■物語という対話

 関西大学では、11月のはじめに学園祭がありましたが、その少し前に、
演劇部の学生が研究室にやってきました。

 話をきいてみると、なんでも学園祭で上演する予定の劇というのが、
倫理的価値判断をテーマにしているらしく、たとえばイラク戦争に対する
キリスト者としての私の考えをインタビューしたい、ということでした(!)。

 へえ、こんなこともあるんだなあ~、と内心かなり驚きましたが(笑)、

「私なんて、異端中の異端だから、あんまり参考にならないと思うよ~」

という点を強調したうえで(笑)、とりあえず、自分の考え方については、
きちんと伝えました。

 その後どうしてそういう展開になったのか、はっきり覚えてないのですが、
彼らの作った脚本を見てほしい、ということになったのです。

 ひょっとすると、彼は私の担当した授業で、「語りスピーチ」の演習を
体験したことがある学生なので、そのせいだったのかもしれませんが…?

 とにかく、脚本を読ませてもらうと、「ドラえもん」という切り口から、
タイムマシンにのって第二次大戦中にタイムスリップし、「日本軍による
中国人への虐待」を扱うという、かなり重たい内容でした。

 ドラえもんの軽さとテーマの重さとのギャップも工夫されていましたし、
過去の歴史に率直に向き合おうとする清々しさにも好感を覚えました。

 けれども、「対話が大切だよね!」といって閉じるエンディングが、
なんとも、きれいごとで片付けられているようで、残念な気がするなあ、
というコメントを返しました。

 彼自身も何かが足りないと思っていたそうで、「書きなおしてみます」
といって去っていきました。

 あれからバタバタと忙しかったので、そのことはすっかり記憶のすみに
追いやられていたのですが、

 さきほど、その彼が、お願いしておいた劇の撮影ビデオをもって、
研究室を再び訪ねてくれました。

 さっそく見せてもらうと、エンディングの部分が大幅に変更されていて、
過去の過ちを糾弾するだけでなく、自分たちの中にもある醜さや弱さに
きちんと向き合い、そういう自分でもできる小さなことから始めていこう、
というエンディングに仕上がっていました。

 実は、物語の倫理というのは、私にとっても重要なテーマの一つで、
コミュニケーション論Ⅰの最後の授業でも取り上げる予定でいますが、
授業内容とぴったり一致するので、なんとか教材化できないだろうか、
ということで、彼の協力を求めたところ、快く引き受けてくれました。

 道徳的な演劇というと、教訓めいた美談で終わるものが多いのですが、
そういう類は好意的に反応する観客がいる一方で、演じ手と観客の間に
冷ややかな距離を生み出すことが少なくありません。

 それに対して、演じ手と観客とがお互いにお互いの弱さを認め合って、
ゆるしあう、というプロセスを共有できたときはじめて、相手の価値観に
影響を与えるような強いメッセージが生まれると、私は考えています。

 つまり、物語も「対話」なんですね。

 それを学術的にきちんと論じることが、仕事の一つだと考えています。
by tomac | 2004-11-12 20:14 | コミュニケーション能力って

■E-Learn2004 報告(その3)

 ドイツからやってきた若き心理学者は、ドイツ人特有のすらっとした細身の長身で、
パサっとカットした感じの金髪ショートヘアが黒のパンツスーツとよく似合っていました。

 見るからにシャープな印象を与える女性でしたが、話しかけてみると、むしろ内気で、
恥ずかしがり屋さんでした。どうやら、「英語」が、それに拍車をかけていたようです。

 「え? ドイツ人なら英語は楽勝でしょう?」

 と思ったけれど、彼女は、旧東ドイツ出身で、ロシア語は話せるそうなのですが、
英語は、たぶん…日本人とあまり変わらない程度だったと思います。

 ディスカッションで沈黙を守っていたのは、言いたいことを言おうとしているうちに、
他の人が同じことをいってしまって、タイミングを逃してしまったそうです。それでも、
みんなの話をきいてるだけで、本当に楽しかった、というのですから、なんだか、
ますます日本人みたいで、いっそう親近感が沸きました。(笑)

 さて、心理学者の彼女が、なぜ作文教育のディスカッションに興味をもったのか?
とたずねてみると、驚くなかれ、ドイツ人学生の20%は論文が書けないというのです。

 「そんな、ばかな! ドイツといえば、ドイツといえば、ドイツといえば…!」

 ドイツといえば、頭に浮かぶキーワードは「批判的思考」です。

 「ヒトラー後のドイツ教育は、市民一人ひとりの『異議を申し立てる能力』の育成を
徹底してきたはずじゃないの?」

 「そのとおり。」

 「じゃあ、どうして?」

 「たとえば学生に、『あなたはどう思う?』ときくと、『さぁね。あんたはどう思うの?』
と返ってくる。私たちは、常に世界のトップだと思い込んで、作文教育にあまり関心を
払ってこなかったの。」

 これまでドイツの教育に敬意を払ってきた私としては、現実とのあまりのギャップに、
なかなか彼女の真意が理解できなかった、というのが正直なところです。

 たしかなことは、彼女が作文教育用のシステムを開発したいと考えているということ。

 現在、彼女は、技術者とチームを組んで、いわゆるインターアクティブな自学自習用の
英語学習ツールを開発中で、その仕組みを作文教育に応用したいと考えているそうです。

 私の疑問は、「正解」のある文法と違って、判断の基準が「文脈に依存する」議論を、
どうやってシステム化するのか?ということでした。

 「うーん。むずかしいね…」

 はにかみながら、そう笑う彼女を前にして、

 コンピュータと向き合うインターアクティブなツールは、語学学習には適していても、
作文教育では、せいぜいアウトラインにあてはめるところまでだろうなあ。恐らく、
出発点としては機能するだろうけど、結局は、丸テーブルで共有された問題意識に、
たどりつくことになるのではないかな?

と思ったけれど、口には出さず、「いつか、私のことを思い出したら、連絡してね…」
とだけ伝えておきました。
by tomac | 2004-11-11 18:55 | eラーニングあれこれ

■WebCTの本

 毎回毎回、「E-Learn 2004報告」シリーズでは面白くないと思うので、ちょっと話題をかえてみます。(笑)

 WebCTといえば、「eラーニンガー」(←私の造語)ならば誰でも知ってるメジャーなプラットフォーム(コース管理システム)です。

 私は、昨年の春、「第1回日本WebCTカンファレンス」(日本WebCTユーザ会)をのぞいたことがきっかけとなって、初めてWebCTのことを知ったわけですが、それ以来、コミュニティには積極的に参加してきました。

 もともと私にとって、WebCTの魅力は、WebCTというプラットフォームそのものというより、むしろユーザたちにあり、熱いエネルギーを発するコミュニティにありました。(→2003年3月20日に関連記事あり)

 もちろん、コミュニティというのは変容するものですから、いっときの情熱が永久に持続するわけではないと思いますが、きっと、変わりつつも成長していくものなのでしょう。

 その象徴の一つだと思うのですが、いよいよ本格的な書籍の出版の話が進んでいるそうです。そして、なんと私もその一端を担わせていただけるというお誘いを…私の知る限りでは最も熱き「eラーニンガー」である…Y先生@広大から頂戴しました。

 私の個人的な関心は、組織的なプラットフォームの利用から、流動的な学習環境の形成へと向き始めてはいるものの、

 これまでの小さな研究から得られた、ひとかけらの知見でも、それを必要としている人たちに向けて発信できる貴重な機会を与えていただけたことに心から感謝しています。

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 ただ、これで11月末までの原稿ノルマが3本になったので(!)、いつも以上に時間管理が要求されるのですが(涙)、 「E-Learn 2004報告」シリーズは時間がかかっても書きたいので、気長にお付き合いくださいね…。
by tomac | 2004-11-10 20:13 | 日々の出来事

■E-Learn2004 報告(その2)

 E-Learn 2004では、研究発表のほかにも、いろいろなプログラムが提供されていましたが、今回はじめて、「Roundtables」というセッションに参加してみました。

 タイトルから想像していたのは、日本でいうところの「パネル」のように、複数の発表者が公開討論をするのかと想像していたのですが、いってみると、文字通り、「丸テーブル」に円座になってディスカッションするというプログラムでした。

 当初、「Roundtables」が何なのかさえよくわからなかったので、とりあえず興味本位でのぞいてみたのは、

「"The Write Stuff:" Strategies for Improving Writing Skills in the Online Classroom」

というセッションでした。

 テーブルに近づいたときはまだ3人しかいなくて、がらがらのテーブルで声をかけられたら離れることもできず、なんとなく席につきました。ところが、司会者が話をはじめた直後に、あれよあれよと人が集まって、あっという間に満席になりました(!)。

 参加者はみな何らかの形で作文教育(大学生や社会人が対象)に携わっている人たちで、たしか私を含めて11名いたと思います。

 ほとんとが北米の出身者で、あとは、英国、ドイツ、日本(私)から一人ずつ、というメンバー構成でした。この時点で、内心、「ぎゃ~っ!」と思ったことはいうまでもありません。

 けれども、焦ったところで既に後のまつりです。始まってしまった以上、中座することはできません。まあ、黙って聞いてるだけでいいや、と観念して留まりました。

 ところが、話に耳を傾けていると、議論は思わぬ方向へと展開していきます。なんと、参加者のほとんどが、いわゆるアウトラインに文章をあてはめる典型的な指導法に問題意識を抱き、新しい教育方法を模索している人たちだったのです。

 そういうことなら、私にも言わせて!

というわけで、普段のままの自分で、考えを丁寧に伝えていたら、いつのまにか、しっかりと議論に参加している自分がいました…。(笑)

 結局、1時間という時間枠が短く感じられたほど、あっという間にセッションは終わってしまいました。

 そんなわけで、なんとなく中途半端な気持ちのままトイレに向かったわけですが、入口の前で、さきほど丸テーブルの向こう側(私の正面)に座っていた女性と出くわしました。

 議論の最中、いちばん視点を共有できたように感じた人だったのですが、なにげなく会話をしているうちに、彼女の専門がレトリック(修辞学)であることを知って、なるほど、と納得しました。

 「それにしても、私の言うことに対して、あんなふうにみんなが一斉に賛同してくれるとは意外だったな。10年前には、こういう反応は得られなかったのだけど。」

と私がいうと、

「それはそうでしょうね。でも、この10年で現場は大きく変わった。今では、文化的・社会的要因を考慮にいれることの重要性は、どの教科書も必ず指摘しているわ。」

と教えてくれました。

 なんだか、それを知っただけで嬉しかったけれど、それならきっと、こちらから貢献できるものがあるんじゃないのかな?と、ふと思いました。

 あいにく彼女は名刺を持っていなかったので、名前さえわからなかったけれど、なにか一緒にできるような気がして、とりあえず自分の名刺を渡しておきました。

 これまで開発したカリキュラムは、実施の対象を日本人から留学生へと発展させてきたけれど、それを英語圏の学習者に広げることができたら、ものすごく面白そうだな~。

-----

 ちなみに、このあとトイレで用を済ませた私は、手を洗いながら、ふと隣の女性に気づきました。さきほどのディスカッションでは唯一、最後まで沈黙を守っていた彼女は、ドイツからやって来た若き心理学者でした…。

 (つづく)
by tomac | 2004-11-08 19:28 | eラーニングあれこれ

■E-Learn2004 報告(その1)

 とりあえず無事にもどりましたー。(笑)

 入国審査はしんどかったけれど(涙)、充実した5日間(E-Learn 2004)で、出会いという意味でもとても実りある旅だったので、そのしんどさも苦になりませんでした。

 とはいえ、いっきにお話しできないので、まずは全体的な印象からお伝えしますね。

 私にとって、AACEへの参加は今回が初めてで、学会の様子がよくわからなかった、ということもあって、発表のテーマには、教育方法や教材開発を扱った内容ではなく、eラーニングとして無難な(?)「学習環境」を選びました。

 ところが、ほかの参加者の発表をきいてみると、ITうんぬん、というよりも、「学び」そのものにかなり踏み込んだものが少なくなく、自分にとっては、そちらのほうがずっと刺激的でした。

 一方、私の発表は、といえば、

「遠隔オンライン学習は、対面の学習に劣るのだろうか?」

という問題提起であり、どちらかといえば、「反eラーニング」的な人たちに対して、遠隔教育の効果を訴えるという、いわば後向きな提案だったということに気づきました。

 もちろん、発表を聴きにきてくださった方々は皆すごく真剣に聴いてくださって、すべて完璧にできたわけではないけれど、自分なりに納得のいく準備をしてよかった、と思えました。

 ただ、私の想像では、(何らかの意図をもって参加してくださった方をのぞいて)ほとんどの人は、eラーニングに対して懐疑的な人、実践を始めたばかりの人、問題をかかえて行き詰っている人などだったのではないかと思います。

 まあ、そういう層を想定したタイトルですから、当然といえば当然ですが…。

 でも、次の機会には、むしろ、ばりばりの「eラーニンガー」(?)をうならせるようなテーマを選びたいものだな、と思ったしだいです。(笑)

 ちなみに、「e-Learn 2005」は、バンクーバー(カナダ)だそうですよ~。

 いずれにせよ、国際学会と海外出張は、準備と移動の負担が大きいので、ついつい敬遠してしまいがちですが、もっとマメに外に出ていかなきゃだめだな~、ということを強く実感するきっかけになりました。

 というのも、

 eラーニング研究においては、「どこまでができていて、どこからが課題なのか」に国境はないんだ!ということがよくわかったからです。少なくとも現時点では。

 各国から集った研究者たちとのホットな出会いがそう思わせてくれたのですが、一つ一つ書いていこうと思いますので、よろしければ、このあともおつき合いくださいね。
by tomac | 2004-11-07 19:53 | eラーニングあれこれ
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