コミュニケーション能力と学び(覚え書き)

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■コミュニケーションするということ

 「ことば」によるコミュニケーションに障害のある自閉症は、「イメージ」を意思疎通の手段として用いることが知られていますが、これをケータイの機能で補うソフトあのね♪が新聞に紹介されていました。

 また、今朝の朝日新聞では、認知症(痴呆症)の人とコミュニケーションをとる方法(バリデーション療法)が掲載されていました。

 こういう記事を読むたびに、コミュニケーションするということは膨大な量のチャネルを同時に動かすことなのだ、と実感します。

 マルチ・チャネルを最大限に活用することが、すなわち、コミュニケーション能力ともいえますが、すべてのチャネルをフル稼動させたからといって、人と人との「つながり」が生まれるわけではありません。

 逆に、いままで見過ごされてきた小さなチャネルを見つけて、たった一つのチャネルから丹念に働きかけることによってはじめて、「つながり」が生まれることもあるでしょう。

 こういうところに、コミュニケーションの難しさがあるんですよねえ…。
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by tomac | 2005-01-31 20:17 | コミュニケーション能力って

■きくこと・まつこと

 外出や会議が続き、まとまった時間がなかなかとれないまま、記事の書き込みが中断してしまいました。毎日チェックしてくださっている方々には、申し訳ありませんでした。
 一昨日、中学校のベテラン先生にお話をきかせていただく機会がありましたが、現場のやり取りを生々しく伝える手記を読ませていただき、「きくこと」と「まつこと」の重要性を再確認することができました。私も日ごろから、できるかぎり、それを意識しているつもりです。とくに、授業や議論の場では、意図的に自分をコントロールしています。
 ところが、この「ブログ」では、それができていなかったんだ!と気づかされました。
 最近はシリーズの記事が続いたせいもあると思いますが、弾丸のような(汗)勢いだったので、熱心に読んでくださっている方々が、投稿したくても、そのタイミングがなかったんでしょうね。
 たとえば、1月26日の記事のあと、時間がとれなくて書き込みを断念せざるを得なかったのですが、その「」があったからこそ、mt_bacaさんがコメントをくださったのではないか?と思っています(偶然みつけてくれた西小倉さんはちょっと違うと思いますが)。

 たしかに、一方的に発信を続けるだけでは、返信をはさむ余地がないですよね。

 こういう「」のとり方って、対面のコミュニケーションではものすごく重要ですが、家族や親しい間柄などプライベートな関係では、お互いに甘えが出てしまって、つい忘れがちです。ましてや、個人的な日記を出発点とする「ブログ」で、「」のとり方をコントロールするなんて、はたしてできるのかしら?
 なんて、とっぴな発想かもしれませんが、とりあえずは、ときどき記事を休むというのも、無駄にはならないということですね…(笑)。
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by tomac | 2005-01-29 12:31 | ふれあいリンク

■ケータイというメディア

 NHK人間講座人間性の進化史 サル学で見るヒトの未来」(正高信男)が放映中です。たまたまテキストだけ購入していたのですが、昨夜はじめて番組の終わりをちらっと見ました。なかなか面白かったので、さっそくテキストを開いてみると、こんなくだりがありました。

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 たいへん言いふるされた表現であるものの、なんといっても日本は欧米の個人志向に対し、集団主義の文化の国である。人々のつながりというものを生活のあらゆる面において重視してきた。すでに書いたように、人々がつながりを維持できるのは共通の価値を見出すからにほかならない。ところが共通の価値は喪失した。しかし日本人は、つながりを維持しないと生きていけないのである。(p.124)
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 それで、「つながり」を維持するために「ケータイ」を持つ、というのが正高氏の主張です。「メッセージ」のやりとりがあるかないかは重要ではなく、みんなが「ケータイ」を持っているということそれ自体が「つながり」を実感させるのだ、と。

 この「ケータイ主義的人間の誕生」に正高氏はきわめて批判的ですが、それはさておき、メディアばかりが強調されて、メッセージが置き去りにされている、という問題意識は私も常々抱いています。

 けれども、だからといって「ケータイがないほうがいい」とは思いません。私が「ケータイ」を持たないのは、今のところ必要がないからであって、映像の送受信が本格的にできるようになったら、そのときは間違いなく購入すると思いますよ。(笑)

 「メディア」が人間社会を変える歴史は誰にも止めることができません。それなら、「メディア」の進出によって「メッセージ」が消失することを嘆くより、その「メディア」を使って「メッセージ」を生み出すことの楽しさや難しさをいかにして共有できるのかを考えるほうが建設的ではないか?と思うからです。
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by tomac | 2005-01-26 21:02 | eラーニングあれこれ

■失敗

 週末、東京から大阪にいらした方と仕事のご相談をするために新大阪駅の近くで待ち合わせをしました。ところが、先方から、出発直前になって飛び込みの仕事がはいった!という連絡をいただき、急遽、集合時間をずらすことになりました。

 私がケータイを持っていないので、PCメールでやり取りをしたのですが、実は、最終的な意思確認の手段が、メールなのか、大学の電話なのか、自宅の電話なのか、の合意がとれないまま、時間がせまり、とりあえず出発せざるを得ませんでした。

 しかし、結局、面会は実現せず、ふたたび新大阪駅から高槻駅まで戻ってきたわけですが、私は私で1時間半待ち続け、先方は先方で、確認がとれていると思い込んで一時間後に到着した、ということが後から判明しました。

 よくよく考えると、あの時点でああしておけば、こんなすれ違いは決して起きなかっただろうに…というタイミングがいくつもあることに、今さらながら驚かされます。たくさんの通信メディアに囲まれているわりには、肝心なことが抜けていたんだな~と反省しきりです(涙)。

 ケータイを持っていれば、こんなことにはならなかったのかな、と思う反面、ケータイがないからこそ、こういう失敗も経験できるのかな、なーんて強がったりして。

 いずれにせよ、新大阪駅のエスカレーターは思い出の場所なので、なんとなく懐かしくて、新大阪駅までの往復一人旅(?)は、まあまあ楽しめました。(笑)
 
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by tomac | 2005-01-24 17:34 | 日々の出来事

■E-Learn 2004 報告(その5)

 このシリーズのことをすっかり忘れておりました(汗)。すでに年を越してしまい、リンク先も「2005年版」に更新されてしまいましたが、大切にとっておいた話題をまだ書いていなかった!と気づきました(笑)。このシリーズでは、eラーニング国際会議を通して出会った人々や出来事を紹介してきましたが(→カテゴリ→eラーニング)、中でもいちばん印象に残っているのは、フィンランドからやってきた二人の研究者です。

 一人は、デジタル放送を活用した成人教育の実践報告をした女性で、たまたま懇親会のテーブルで同席したのがきっかけとなり、親しく交流する機会がありました。また、ロビーのソファーで隣り合わせた別のフィンランド人女性から、研究の話を聞かせていただきました。ネットワーキングを用いて大学教育に市民参加を導入する試みについて発表すると聞いて、彼女の発表にも興味深く耳を傾けました。

 二人はもともと知り合いだったわけではなく、会場で初めて会ったといっていましたが、どちらにも共通していたのは、「市民」と「メディア」というキーワードです。フィンランドの話を聞けば聞くほど、テクノロジーが社会に浸透していることはもちろん、「市民教育」がどっしりと日常に根付いていることに驚かされました。たぶん、テクノロジーの水準は日本と大差ないと思いますが、「市民教育」という視点で考えると、日本とフィンランドには、大きな大きな格差があることを痛感いたしました。

 フィンランドといえば、国際的な学力調査の結果が2回連続で世界トップという話題が記憶に新しいと思いますが、きっと、日本のように学校と社会が断絶しているのではなく、市民社会が学校教育を包み込むように支えているのではないか?と感じました。

 実はあれ以来、「自分の目で確かめてみたいな~」という気持ちがふつふつと沸いてきていますの…。(笑)
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by tomac | 2005-01-22 13:06 | eラーニングあれこれ

■eラーニング研究室

 「eラーニング研究室」なーんて、おおげさなタイトルをつけましたが、ここ(exciteブログ)の他に新しいブログ(gooブログ)を開設してみた、というだけの話です(笑)。いずれ授業でブログを使うようになれば、分室みたいなブログが必要になるので、とりあえず複数のブログを連結させるってどんな感じなのか、試してみようと。→eラーニング研究室

 以前ここでも話題にあがりましたが、ケータイのビデオカメラを使って撮影・編集・送受信する動画ブログのサービスを昨年末にgooブログが始めましたよ。→goo動画ブログ

 映像ブログを利用したeラーニングの本格的な稼動は4月を予定しています。著作権の問題とかややこしくなるので、そのときには独自のブログが不可欠になりますが、今はその前の「お試し期間」という感じです…。
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by tomac | 2005-01-21 19:18 | 牧野ゼミ(表現活動)

■合否判定

 ただいま試験期間中です。全5回のシリーズを終え、今度は採点に追われています。
 一枚一枚読むのはたいへんですが、それよりなにより、合否の判定って、つらいです。
 「進級できない」「卒業できない」「就職できない」って泣きつかれると…。
 でも、情に流されず、毅然とした態度を貫かなければ、どう考えても不公平ですよね。
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by tomac | 2005-01-20 19:45 | 日々の出来事

■対話デザイン→受講生のレポート(その5)

 参加者の努力に見合う「対価」とは、対話を通して得られる喜びではないか、と書きましたが、もう一つ、全体の成果としての「新しい価値」が生まれたのではないかと思っています。

●アンケートをきっかけに、紙の上だけで表されていた「対話」ではなく、本当の「対話」が、私たち受講生、ゼミ生さん、先生との間で生まれたことに対して、私は、それぞれの立場の人たちが自分だけではなく周りを見渡すことができ、そして、もう一度自分を振り返ってみることができて、それぞれが一歩前進したのではないかと思いました。一方通行な授業ではなく、みんなで取り組めた気がします。アンケート結果の途中はどうなることかと思いましたが、最終回になってみると、とても満足できました。

●授業評価アンケートで、少数の受講生がこの授業やゼミ生を批判したことは、結果としてよかったと思う。この少数の受講生の意見を、真正面から真剣に、講師とゼミ生がとらえ、考え、その人たちにむけ授業の時間を割き、その意見に対しての返答や意見について話すことにより、他の生徒もそのことについて考えさせられた。この「ゼミ生・講師」と「受講生」との対話により、一つの答えが明確に出ることはなかったですが、少しだけでも、授業をする側と受ける側と、両者が前に進めたと思います。

 ゼミ生にとっての「前進」は各自から詳しく報告されていますが(→05.01.11-12)、受講生にとって「前進」とは、たとえば、こんな感じです。

●ただ相手を批判するだけでは、憎しみが生まれることが分った。実際にアンケートのあった次の週は、ゼミ生の多くが遅れてきて、このことからもゼミ生のヤル気が萎えてしまったことが分かる。しかし、講師がこの対話について時間をとって話をしてくれたおかげで、ゼミ生と受講生の間に生まれた溝が少し解消できたと思うし、アンケートから生まれた対話によって、批判するときのエチケットを実践的に学ぶことができたと思う。

●一部の受講生がゼミ生に対して、相手の気持ちをまったく考えていない意見をつきつけました。その意見によってゼミ生が動揺していて、いつもの授業とは少し違っていたのを今でも覚えています。しかし、講師、ゼミ生、そして私たち受講生による対話により、一人ひとりの意見は違うものなんだと理解し、それと同時に相手を尊重することの必要性を見出しました。自分のことで精一杯の人が多いのが事実ですが、相手の気持ちも労わることはとても大切であるということを学びました。

●アンケートをきっかけに、ある前提が生まれたと思う。それは、人と対話するということは、自分の意見が信頼性を持って初めて行われる行為なのであるから、意見を言う前に、その意見がきちんとした社会的評価を受けるために、定められた責任・義務を果しておくということだ。

 危機が真の対話をもたらし、その成果として「新しい価値」が生まれたと考えることはできないでしょうか。実は、この「危機」(クライマックス)から「大団円」(エンディング)への展開は、ちょうど「ストーリー性」のある「ドラマ」とよく似ているんです。

 私はこれまで、メッセージを分析するうえで、「実証による説得」と「物語による説得」という観点を用いてきましたが、その延長線上で、「実証による対話」と「物語による対話」という分析が成り立つのではないか?と思い始めています。

 これが私にとっての「前進」です。

 さて、「受講生のレポート」シリーズは今回で締めくくりたいと思いますが、最後に少しだけ学術的な視点を添えておきます。教育社会学者の苅谷剛彦氏が、『あなたへの社会構成主義』(ケネス・J・ガーゲン)の書評の中で、次のように述べていました(朝日新聞05.01.06)。

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 ものごとを徹底的に、意味を作り出し了解し合う人と人との「関係」を通してみようとする見方、それが社会構成主義だ。そこでは、「真理」も「善」も「正義」も「合理性」も、すべて言葉を介して社会的に構成されるものだとの見方が貫かれる。(中略)こういう時代には、正しさの競い合いではなく、多様な声に耳を傾け、正しさについて対話を続け、新たな了解を作り出していくこと、著者のいう「対話」が求められる。唯一絶対の正しさに縛られずに、なおかつ、互いに意味づけ、理解し合う関係をどうやって作り直すか。本書を通じて、社会構成主義の基礎知識とともに、生活場面でそれをどう実現すればよいのかを学ぶことができる。
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 人はいかにして、「対話」の「参加者」となりうるのか? これが永遠のテーマですね…
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by tomac | 2005-01-19 09:09 | 牧野ゼミ(対話デザイン)

■対話デザイン→受講生のレポート(その4)

 対話デザインによる授業づくりを思いついたきっかけは、「公平な評価方法の模索」にありました。詳しくは「■大教室の講義授業(2003年10月30日)」に書いていますが、「大教室の講義で、がんばった人が、がんばったぶんだけ報われる評価とは、どのような評価方法なのか?」というテーマへの挑戦でした。

 実は今回、その答えがおぼろげながら見えたような気がしています。

 昨日の記事にてお話ししましたが、「水面下」の対話を「可視化」するために、コミュニケーション・ツールを活用する、というアイデアは、ゼミ生たちが自ら提案したものでした。このとき、私は思わず聞き返しました。

 「え?でも、負担が増えるよ。いいの?」

 ゼミ生からのレポートにもあるように(→05.01.11-12)、彼らは毎回の任務をこなすだけで、すでに膨大な作業量をかかえていました。これ以上の負荷は(アルバイト代などの報酬がない限り)難しいだろうと思っていたのです。が、意外にも、こんな応えが返ってきました。

 「いや、担当チームのフィードバックが15分間の一回きりで終わるより、掲示板を使って、各チームが提示した命題について、受講生と話し合いを続けられるほうが嬉しいです。」

 実は、同様の反応が、受講生からも寄せられています。

●初めて命題を聞いてレポートを書くときは本当に困った。何から書いていけばいいのか迷った。しかし、ゼミ生の方々が「まずどちらの立場か?理由は?例は?」と、その3つが書いてあればいいと教えて下さったので、最初のレポートはなんとか書けたという感じだった。回数を重ねるごとに、レポートを無理矢理書いているというのではなく、自分の意見を聞いてもらいたいというふうになっていた。この小レポートを12回書き続けて、自分の意見を誰かに伝えることが少しうまくなったと思った。

●学期前半の取り組みについては反省する点が多い。自分の考えを書くというよりは、5点を取るためのレポートを作っていたと思う。よく考えられるようになったのは学期の半ばくらいだった。ゼミ生たちの分析や考察が分かりやすくおもしろい。そう思うようになってからは自分も一員として参加できていたと思う。一番記憶に残っているのは、欠陥商品に対する企業倫理に関するレポートだった。A社、B社、C社の選択で、自分はC社を選んだが、今になって考えると、A社が絶対だと思える。

 もちろん、レポートの時間になってやってくる受講生は最後までいました。中には親切に友達のぶんまで書いていた受講生もいたようです。しかし、入室を禁じたり、用紙を限定して配るなどの管理的・権威的な介入は控えました。

 「したければ、すればいい。いちばん損をしているのは、自分だよ」というメッセージは送り続けましたが。

●私は最初、小レポートですべて満点をとれば(合計60点で)この授業に合格できると思い、がんばろうと思っていました。しかし、9時に間に合わず、10時に来る日が2、3回続いてしまったときに、やはり3点しか取れませんでした。なんでだろうとあきらめかけたとき、9時に来て先生の話やゼミ生の話を聞いて、いつもと同じように小レポートを書いたら、5点を取れるようになりました。ちゃんと9時に来て授業を聞くことで満点がとれると分かり、それからはがんばって来ています。

●全ての授業に出席し、小レポートを出したことは出したのだが、2回にもわたり不正行為をしてしまい、先生やゼミ生の皆さんに迷惑をかけてしまったことを後悔している。授業が1時間目だったこともあり、何度か遅刻してしまい、内容がわからないままレポートを書かなければならないことがあった。全くもって意味のないことだが、点欲しさに書いていた。反省。

 人によって、学び方もそれぞれということですね…。

 対話というは、決して強要できるものではありません。ただ、もしも、その喜びを実感することができたなら、それは「点数」よりもはるかに価値のある「対価」になるのではないでしょうか。

 ちょうど、今週の日曜日に企業の「成果主義」について高橋伸夫氏の談話が朝日新聞(広告欄)に掲載されていました(05.01.16)。これを読むと、「企業の評価」も「授業の評価」も同じなんだな~と気づかされます。

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 成果主義を導入している会社では、社員一人ひとりに点数をつけて評価する方法をとっています。だけど、人の能力は、点数で簡単に表せるものでしょうか。(中略)本来、仕事での評価って簡単なものなんです。最高の評価は「また、あなたと一緒に仕事がしたい」と、いわれること。ある人はそのひとことで、それまでの努力のすべてが報われ、人生観が変わっちゃうぐらい感激したといっています。認められる快感を若いときに味わった人は、それが自信につながって、後の仕事人生も大きく変わります。(中略)みんな多少給料は安くても好きな仕事をしたいんです。成果主義を唱えている人は、賃金は成果の対価になっていればいいなんていうけど、間違っていますよ。こんな成果主義じゃ、誰も幸せになれないと、僕は思いますね。
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by tomac | 2005-01-18 12:55 | 牧野ゼミ(対話デザイン)

■対話デザイン→受講生のレポート(その3)

 対話デザインは今回で2回目となりますが、前回は、受講生と講師が直接向き合う、という構図で実施しました。詳しくは、「■授業評価アンケート (2003年12月8日)」という記事で紹介していますが、このときの課題として、「レポートの命題がむずかしすぎる!」という受講生の声がありました。さらには、二者が正面から対峙する対立関係を維持することは、緊張感や動機を高める効果はあったももの、「精神的なしんどさ」が残りました。

 戦うことが目的ではありません。もっと友好な関係づくりはできないのか?という発想から今回は「ゼミ生の介入」という新たな要素を加えました。つまり、「抽象的な知識体系」(講師)を「身の回りの具体的な事象に置き換える」(ゼミ生)というプロセスを介入させたのです。

 これによって、「むずかしい!」という声は格段に減ったことから、意図した効果は得られたのだと思います。しかしながら、この構図には、思いもよらない「盲点」がありました。

 もっとも重要なはずの「受講生と講師」の関係が、あいかわらず一方通行だったのです。

 もちろん、ゼミの時間では、受講生のレポートを題材にしながら議論を重ねたので、間接的には「受講生→講師」という関係が成立していました。しかし、そのことは、受講生たちには全く見えない状態でした。

 そうか。受講生からゼミ生にむけられた批判の矛先は、本来ならば、講師に向けられるべき不満のサインだったのかもしれない!と気づいたのです。

●私は実は、受講生←→講師という矢印が薄いということは少し気づいていました。このレポートが受講生とゼミ生の間にあるのなら、私たちと先生を結ぶには果てしなく遠いなと思っていたのです。それがアンケートに出たなと思いました。アンケートは受講生の意見がゼミ生という経由なくして講師にとどくのですから。でもそれによって、しっかり受講生←→講師の矢印は濃くなったと思います。話し合いの最後の方は中学とか高校での学級会っぽくて、なんかよかったです!(もちろんいい意味でです。)

●最初にゼミ生がレポートを採点するという説明を聞いて正直少しがっかりした。ゼミ生が採点するということは、先生は僕の意見を見てくれないと思ったからです。でも、(アンケートがきっかけで)受講生と講師の対話がなかったとみんな気づいて、僕もそのときにはっきりと気づいた。そこで先生が、来年からになるが、掲示板などを使ったコミュニケーションの場を作ると言ったことは、問題を解決するとてもいい方法だと思った。今年それがなかったのは残念だが、それでもゼミ生と受講生の間に対話はあったし、間接的ではあるが、受講生と講師の間にも対話は成立していたと思います。

 このように、たとえ「水面下」の対話があっても、それが「可視化」されなければ、対話は成立しない、ということがわかりました。

 三者による対話では、自分が直接関わっているコミュニケーションは見えても、自分以外の二者のコミュニケーションは見えません。これは物理的(時間や空間)な制約によるものですが、テクノロジーを活用すれば、問題を解決することができます。

 この発見は、eラーニング研究の立場からみても、とても大きな意味があります。なぜなら、「まずテクノロジーありき」という考え方ではなく、あくまでも「問題解決の手段としてのテクノロジー」になるからです。

 ちなみに、受講生による「責任ある批評」の一例を紹介しておきます。

●一般の授業は、講師から受講生の一方通行になりがちであるが、この授業はその一方通行の間にゼミ生が介入することにより、矢印の向き・方向は大いに広がることができていたと思う。そしてなにより受講生には、講師が言いたかったことがゼミ生のおかげで理解しやすくなっていたと思う。結果ゼミ生は必要だったと思う。しかし、それぞれに至らない点があったのも事実である。まず講師からの説明不足により、受講生にゼミ生の存在理由が伝わっていなかったこと、ゼミ生も人によって取り組み方に差異があるので、フィードバック担当と命題担当で分けたほうがよかったのではないかと思うこと、受講生はまず聞く態度が悪くて、自己主張があまりなく、進んで発表せずディベートのような展開にならなかったこと。他に僕が気づかない中にも改善点はあるかもしれないが、これが完璧なものになれば、新しい授業体系として、とてもすばらしいものができあがると思う。これからもガンバって、すばらしいものにしあげていってもらいたいと思う。そのためにも、一回一回の授業でアンケートをとってみてはいかがですか。
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by tomac | 2005-01-17 17:44 | 牧野ゼミ(対話デザイン)
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