コミュニケーション能力と学び(覚え書き)

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■議論を支援するWebインターフェイスを開発しました

明日(3月1日)、名古屋大学で開催される日本教育工学会の研究会にて、留学生の潘さんと一緒に研究発表をします。(●こちらがプログラムです●

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議論の構造化のためのWebインターフェイスの開発
―議論の十字モデルによる議論構築のファシリテーション―

牧野由香里・潘寧(関西大学)
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潘さんは、20代後半の立派な青年であり、腕の立つ技術者です。ただ、まがりなりにも自分が指導した学生との正式な共同研究はこれが初めてで、感慨深いものがありますね。「いつか中国語版も開発できるといいね」なんて話もしています。

そして、この試みは、かねてからご報告してきた●プロジェクト・フィン●に向けた最初の一歩であり、その先に続く様々な可能性への扉として位置づけています。

そんなを見ながら、まずは次のステップとして、システムの汎用性を高めるために、いろいろな立場の方にいろいろな場で、試用していただくことが不可欠です。

そこで、関心のある方々を対象に模擬授業を計画しております。ファシリテータとして、授業などで試用していただく前に、まずはご自身に参加者学び手)の立場からこのシステムを体験していただきたいと考えているのです。

日程は【4月29日(祝日)の午後】です。会場は●関西大学の天六キャンパス●を予定しています。大阪(梅田)からのアクセスがいいので便利だと思いますよ。

とりあえず、のぞいてみるか」という好奇心の旺盛な方がいらっしゃいましたら、●こちら●までご一報ください。

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by tomac | 2008-02-29 11:36 | eラーニングあれこれ

■ムーミン谷に癒される

b0046050_15483632.gif「教職開発研究」という大学院の授業を受講してくれた方が、「目の癒しになるとよいですが…」といって、この写真を贈ってくれました。なんとムーミンやしきは手作りだそうですよ。ふと思いついて、『ムーミン谷の彗星』をざっと読み返しました。スナフキンのあの有名な台詞が載っています。

「なんでも自分のものにして、もってかえろうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは見るだけにしてるんだ。そして、立ち去るときには、それを頭の中にしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんをもち歩くよりも、ずっとたのしいね」

いかがですか? こんなふうに生きたくても生きられないから、スナフキンはみんなの憧れなんじゃないかなあ、なーんて私なんかは思ってしまいますけど(笑)

かくいう自分も実は「モノを持たない主義」ですが、それは、大学を卒業して以来、短い周期で引越しを繰り返したせいか、荷物が多いとたいへんだという記憶が刷り込まれているからです。あとは、「モノよりスペース派」なので、スペースを奪うモノはとにかく置きたくないというだけで。決してスナフキンのように、すがすがしくカッコよく生きているわけではありません(笑)

そういえば、ずいぶん前に「モノをもたないのは執着したくないからでしょう?」と言われたことがあって、そのときは 「??」 と思ったけれど、よーく考えてみると、「なるほど、そういうことなのかもしれないな」と思ったりもする今日この頃です。

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by tomac | 2008-02-27 16:13 | わくわくフィンランド

■ビタミン補給に

b0046050_193587.jpgよく晴れた日曜日だというのに、見たい映画に行くこともできず、自宅にこもって仕事をしていたら、夕方ふと気づくと雪が降り始めていました。「やれやれ、散歩はやめておこうか」とも思いましたが、突然やきいもが食べたくなったので、雪の中をてくてく歩いて、いつもは通り過ぎる直売店に向かいました。途中で雪が激しくなってきて、もうお店を閉めてしまったかもしれないなあ、と心配しましたが、ちょうど閉店まぎわに間に合いました。1本百円という良心的な値段のうえに、2本頼んだら、もう1本サービスしてくれました!おじさんとの何気ない会話に心がぬくまりました、とさ。…というわけで、さつまいも色にしてみました。
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by tomac | 2008-02-24 19:26 | 日々の出来事

■意志と情熱だけでは…

昨日の記事(プロとアマの分かれ道)について、総情三回生さんから、次のコメントが寄せられました。

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立花隆が20年以上前に書いたルポに、『青春漂流』(講談社文庫)があります。この本には、ソムリエ・田崎真也や猿回し・村崎太郎をはじめ11名の職人(プロ)が登場し、彼らの半生が描かれていますが、立花は「人生における最大の悔恨は、自分が生きたいように自分の人生を生きなかったときに生じる。一見いかに成功し、いかに幸せに見えても、それがその人の望んだ人生でなければ、その人は悔恨から逃れることができない。反対に、いかに一見みじめな人生に終わろうと、それが自分の思い通りの選択の結果として招来されたものであれば、満足はできないが、あきらめはつくものである」として、「自分と自分の意志と情熱のみを信じて、新しい人生を切り開く」よう、「他者の側にではなく、自分の側に自分の人生を賭け」るよう読者に求めています。
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他者の側にではなく、自分の側に自分の人生を賭けるべきとは、本当にその通りだよなあ、と思う反面、それが一番難しいんだよね、と思ってしまいました。なんだか、水を差してしまったら、申し訳ありませんが。

意志と情熱だけで夢がかなうなら、この世はどんなにすばらしいところだろう、と思うけれど、現実の世界は、思い通りにならないことのほうがはるかに多いです。誰もが物理的な制約や社会的なしがらみの中で生きていかなくてはならないのですから。そういうものから自由な人がいるとしたら、その人はとてもめぐまれた環境にいるのでしょう。

ただ、制約もしがらみも、実は流動的で一時的なものなので、状況は常に変化し、いずれチャンスはめぐってくる、という【自然界の摂理】がわかれば、おのずと道は見えてくる、というのが個人的な人生観です。

けれども、そのチャンスがいつなのかは簡単には予測できません。ですから、いつ何時でも準備を怠らないこと、それに尽きます。これは、やろうと思えば誰にでもできることのはずですが、丁寧にこつこつと継続するのは簡単なようで難しい。

それで、ふと思ったのですが、本人の意志や情熱はもちろん大事ですが、それを支えてくれる人の存在、つまり、「自分のめざす道の価値を認めてくれる人」の存在は、もっと大きいのかもしれません。そういう人が誰もいない孤独な道は、一人で歩み続けるには、あまりに長く険しすぎるから…。

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by tomac | 2008-02-21 10:06 | コミュニケーション能力って

■プロとアマの分かれ道

偶然、博士課程の院生に出くわし、久しぶりに話をしながら、彼の書いた修士論文を思い出していました。パフォーマンスの専門学校に通う若者と、現在プロとして活躍しているパフォーマーにインタビューをし、「プロとアマの分かれ道はどこにあるのか?」という問いに対する一つの答えを導いたのが研究成果でした。

プロをめざして専門学校に通う若者のうち、多くの人が最終的には夢をあきらめざるをえないのに、その中でプロとして残っていく人たちの違いは何か?

彼によると、ある分岐点に立たされたとき、「この先たとえ一生頑張ったとしても、努力が報われないかもしれない。しかし、それでもいい」と思って踏みとどまることができるかどうか、が分かれ道だというのです。もちろん、この仮説をどこまで一般化できるのかという点を厳密に考えれば、多くの課題が残されています。とはいえ、自分の歩みをふりかえると、たしかにそういう分岐点がいくつもあったな、と実感を持って納得できました。

最初は、研究者をめざすということがどういうことなのかさえ、よくわかっていませんでしたし、残念ながら、的確にアドバイスをしてくれる人にもなかなか出会えませんでした。ですから、研究職にたどりつくまで、ずいぶん遠回りをしましたし、そのぶん時間もかかりました。その効果を今になってじわじわと感じてはいますが、一歩まちがえば、永遠に堂々巡りのままどこにもたどりつけなかった、という最悪のシナリオもあったはずです。

何の保障も約束もない不安定な状態の中で、分岐点に立たされたとき、自分はなぜ踏みとどまることができたのだろうか? と考えてみると、「途中であきらめたら、きっと後悔する。それなら、やってみて後悔するほうが、まだいい」という、なんとも後ろ向きな理由(笑)だったのですが、まあ、結果オーライということで…

なんだかんだと苦労した時期もあったけれど、好きな研究と教育を生業として、人並み以上の給料をいただける立場になりました。学位もとれたし、本が出版されれば、この先は「プロとしての道」を歩めるかどうか、が問われるのだろうと思います。

この先にはもう「プロとアマの分かれ道」はないでしょう。ただ、「いかにしてプロであり続けるか」はもっと難しい問いかもしれない、と漠然と想像しています。

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by tomac | 2008-02-20 17:45 | 大学院でめざすこと

■久しぶりに「見たい」映画です

------潜水服は蝶の夢を見る-----

ぼくは生きている。
話せず、身体は動かないが、確実に生きている。

ジャン=ドミニク・ホビー
ELLE編集長、42歳、子供3人の父親。
ある日倒れ、身体の自由を失った。
そして左目の瞬きだけで語り始める。
蝶のように飛び立つ想像力と記憶で―。

------(オフィシャルサイトより)-----

●こちらで予告編が視聴できますよ●

原作を読む前に、身体の機能のほとんどが失われ、「左目の瞬き」と「想像力」と「記憶」だけで描かれた世界がどのように表現されるのか、映像を通して体験してみたいです。

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by tomac | 2008-02-18 12:22 | コミュニケーション能力って

■院生のふりかえり

コミュニケーション能力とメディア」という大学院の授業では、学期の終わりに「自己評価とふりかえり」のレポートを課します。院生の多くは授業の内容に関する学術的な論述を展開します。それはそれで刺激的ですが、今回ご紹介したいのは一味違うレポートです。なんといいますか、自分自身と向き合う素朴な姿勢が、逆に新鮮だと感じました。

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 今回のレポートのタイトルは自己評価と振り返りである。まず授業を受ける中での自分を振り返り、そのあと自己評価をしたいと思う。

 まず振り返りであるが、この授業を受ける前、私は不安だった。その理由は2つあった。「あの授業はものすごく為になるけど難しすぎて知恵熱が出る」という今まで授業を受けてこられた先輩たちの「面白いけど難しい授業だよ」という感想を聞いていたことと、7月に行われた教育メディア研究会の発表で聞いた牧野先生の発表が全く(申し訳ありません)分からなかったからである。この発表を聞いたあとM1のみんなが「牧野先生はやっぱりすごいなぁ」「おもしろかったよね」という感想で盛り上がる中、心の中で「何かすごいけど何の話だったんだ?」と全く理解できていないことにとても焦ったからである。
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これは偏見かもしれませんが、会話の中にユーモアを交え、しかも相手(ここでは講師の私)を持ち上げるところなんかが、うまいなあ、と素直に感心させられます。関西人ならでは、のセンスですよね?

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 緊張しつつ始まった授業であったが、半期の授業を振り返ると研究を考える上で非常に考えさせられることの多い授業だった。例えば、人を納得させるにはきちんと筋の通った話をする必要があること、具体的な資料を提示することの重要性、筋の通った主張をするには議論の十字のような枠があると考えやすいということ、しかしそのような枠をきちんと埋めて人を納得させることの難しさ、論文には書ききれない書き手の思いがたくさんあること、などである。他にも書きれないが、これらのことは今後研究を進めて論文を書くにあたって常に意識していないといけないことだと思う。特に私は自分の修論構想などを考える時、自分の思いだけで突っ走ってしまうことが多い。この授業を通して人に納得してもらえるように考えて話すことを常に意識するようになった。また、論文を読む時に批判的に見ることと、人の意見に対してじっくり考える癖もついた。同じ研究室の人の意見を聞くことは参考になったのはもちろんだが、違う研究室の人の話を聞く機会も多く興味深かった。

 半期間の自己評価であるが、他の人の発表に関してもっと積極的にコメントを返すことができたのではないかという点、課題を作成する上でのタイムマネジメントが反省点である。一方、授業を通して学んだことを他の機会に活かそうとしたことや、最終的に論文を読む時や研究を考える上での基本的な考え方に取り込めた点が評価できる点としてあげられる。

 半期間という短い時間ではあったが、今後も学んだことを活かして勉強を続けていきたいと思う。
-----(※レポートの公開については、ご本人の承諾を得ています)


研究ということの基本は大学生の「卒業研究」だけでは十分に身につかないのかもしれません(もちろん個人差はあると思いますが)。大学院で、もう一度基本をやり直すとしても、それはそれでかまわないと思っています。

学び上手な人は吸収力があるけれど、学び下手な人は聞く耳を持たない、と感じることがよくあるので…。

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by tomac | 2008-02-15 11:26 | 大学院でめざすこと

■市民性を育てるということ

なぜ幼児の話ばかりするのか?とお思いでしょうか。幼児にも潜在的な能力は十分あるのにもかかわらず、それを育てようとしないのが日本という社会なのだということをお伝えしたかったのです。ちょうど今、【市民性教育】に関する原稿を書いていて、以前読んだ本を読み返していたのですが、●裁判員制度●いよいよ来年ですね)の導入に向けた課題を端的に表している文章をご紹介します。

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まだまだ日本の法曹界には明治以来の旧態依然たる上からの法による統治意識がのこっています。(中略) 法といっても、それは人がつくったものです所詮は人の判断ではないですか。それだからこそ、つねに人の判断を主とすべきなのに、法で判断をしばり、法で人を裁こうとするのは、主従の関係が転倒しているからです。(中略)

大幅な市民の裁判への参加をすすめることによって、市民の健全な常識にもとづく判断力を社会全体が努力して育てていかなければならないでしょう。市民の判断を尊重しないかぎり、市民の判断力は育ちっこないわけです

それを日本の近代化の始まりの明治の初期からやるべきでした。それなのに、それから一世紀半近く経っても、依然として上からの法による統治に郷愁を抱く者が多いありさまです。これでは国際的に見て日本の将来は暗い、実に暗いと言わざるを得ないでしょう。

平均的アメリカ人や平均的中国人とくらべると歴然としていますが、平均的日本人の説得力の弱さは惨憺たるものです。それに応じて日本の言論も実に程度が低く弱いのです。これでは日本の国際競争力は低下する一方です。

どうしてそうなのか答えははっきりしています。国民の説得力の水準をきめるのは、ビジネスや学術における説得力ではありません。日本はそれらの分野での説得力の水準も確かに低いですが、平均的な日本国民の説得力の弱さは、裁判を筆頭として公の場で説得力を発揮することを抑えつけられてきたからです。基本的に日本人や日本語が説得に向いていないわけでは絶対にないのです。

市民の日常の主張が尊重されないから、市民は能力に自信がもてず、だから能力が発揮されず、眠らされたままになっていました。ここのところを強く肝に銘ずべきです。
-----(赤木昭夫 2005 『説得力』 NHK出版 p.68-70)-----


日本には日本が長い時間をかけて育てた【イメージの文化】があるので、それはそれとして世界に向けて発信していかなければならない、というのが私の(研究者としての)立場です。

しかし、【市民性】ということに関していえば、もはや【イメージの文化】にあぐらをかいていられる時代ではありません。【ことばの文化】を育てるということは、幼児のような弱い立場の者さえも人格を持つ一市民として尊重される社会をつくることに通じているのです。

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by tomac | 2008-02-13 15:26 | コミュニケーション能力って

■一歳児でも

b0046050_1757675.jpg一歳九ヶ月の姪とは会う機会が少なく、なかなかなついてくれなかったのですが、はじめて受け入れられたと感じました。どうやら、ちゃんちゃんこをハンガーにかけてあげたのがきっかけだったようです。服をハンガーにかけてもらったことがなかったのか(?)翌日から上着をハンガーにかけろと要求するようになったそうです(笑)。言葉はまだ数えるほどしか言えませんが、言えなくても、大人の行動の意味はちゃんとわかってるんですね。
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by tomac | 2008-02-11 18:18 | コミュニケーション能力って

■こう見えても…

幼稚園の頃は弱虫でした。身体が小さくて、大きな子にいじめられる毎日でした。幼稚園に行きたくなくて、毎朝、門の前で泣き叫んでは母親を困らせました。けれども、ある出来事をきっかけに、いじめっ子と友だちになりました。どういうわけか靴をドブに落として泣いていた私を助けてくれたおじさんが、なんとその子の父親だったのです。貸してもらった靴と靴下を返しに行った日を境にその子と仲良くなりました。「あの子の家に一人で遊びに行けるなら、幼稚園にも一人で行けるでしょう?」と母親に諭されて、「それもそうだな」と納得し、それまで母の付き添いなしでは行けなかった幼稚園に一人で行けるようになりました。幼稚園児でも自分なりに考えて行動できるのだと思います。
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by tomac | 2008-02-09 16:34 | コミュニケーション能力って
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